PriGym | 【池袋】パーソナルジム
論考記事回復・休養と意思決定
要旨
本稿は、一般パーソナルジムの現場で「頑張らせる」ことが価値として強化されやすい一方で、クライアントが抱える生活ストレスを含む負担の総量が見落とされやすいことを指摘します。その結果として生じうる意欲低下やフェードアウトを、個人の根性論ではなく、負荷と回復の釣り合いを見誤った意思決定の帰結として捉え直します。結論は単純です。負荷を足す技術と同じ熱量で、負荷を足さない判断を、専門性として言語化しなければなりません。
本稿の射程
本稿が想定する読者は、健康なクライアントを対象とするパーソナルトレーナー、および自身の身体運用に関心を持つトレーニーです。
本稿は特定の疾患に対する医療的ガイドラインではありません。診断や治療を目的とせず、現場における意思決定の設計思想を扱います。特に本稿では、一般生活者を対象とした指導現場において、回復・休養をプログラム上の変数としてどのように扱うかという判断枠組みを論じます。明らかな体調不良や痛み、長期にわたる不調が見られる場合は、本稿の範囲外であり医療機関への相談を優先します。
はじめに
パーソナルトレーニングというサービスにおいて、指導者が提供する最も分かりやすい価値は何でしょうか。多くの現場において、それは「適切な運動負荷を与えること」であり、クライアントを励まし、「一人では到達できない強度まで頑張らせること」であると認識されています。汗をかき、息を切らし、翌日には心地よい筋肉痛が訪れる。この一連の身体的感覚は、サービスに対する対価としての満足感を形成する、非常に分かりやすい指標です。
しかし、現場では別の現象も繰り返し観察されます。来店回数が減り、予約の間隔が延び、やがて連絡が途絶える。いわゆるフェードアウトです。これを性格や根性の問題として片づけた瞬間、思考は止まります。残る選択肢は「もっと励ます」「もっと追い込む」くらいしかなくなるからです。
善意で設計したはずの仕組みが、別の合理によって逆回転を始める。止めるべきだと分かっていても、抗えない圧に押し流される。筆者には、その苦い経験があります。その経験が、本稿の出発点です。
本稿は、そうした停止を避けるための視点を提示します。証明をするのではなく、現場で起きていることを、別の説明で捉え直します。そこから、介入の形を更新します。そのための論考です。
第1章 一般パーソナルジムにおける「高強度バイアス」の構造
本稿が対象とする「一般のパーソナルジム」は、プロアスリートを対象とした施設ではありません。主な顧客は、ダイエットやボディメイク、あるいは健康増進を目的とした一般の生活者であり、利用頻度は週1〜2回、セッション時間は60分前後というのが標準的なフォーマットです。
こうしたジムに通うクライアントの多くは、運動それ自体が好きでたまらないわけではありません。「一人では続かない」「自分だけでは甘えが出る」という自覚があるからこそ、安くない対価を支払い、トレーナーという伴走者と、予約という強制力を買っています。この前提に立つと、トレーナーとクライアントの間には、ある種の暗黙の合意が生まれます。頑張らせることが価値であり、頑張ることが報酬である、という合意です。
価値指標としての「疲労感と筋肉痛」
週1回のセッションで満足度を提供しようとしたとき、最も即効性があり、分かりやすい手段は、心拍数を上げ、汗をかかせ、筋肉に刺激を与えることです。「今日はやり切った」という疲労感や、翌日の筋肉痛は、「良いトレーニングをした」という分かりやすい印になります。地味なコンディショニングや動作学習よりも、「重いものが持てた」「息が上がるまで追い込んだ」という体験の方が、価値として理解されやすいのは自然です。これは精神論というより、商業サービスとしての見え方の問題です。
だからこそ、「あと少し」と背中を押す声かけと、歯を食いしばって応える姿が噛み合うと、文化は強化されます。追い込めることが指導力の証になり、キツいほど満足度が上がりやすい。結果として、負荷を下げる判断は、必要性があっても言いにくくなります。
休養提案に対する心理的障壁
来店したクライアントの顔色が優れず、会話の端々から仕事や育児の疲労が滲んでいる。身体の仕組みだけを見れば、その日の最適解は軽めの内容、あるいは完全なオフかもしれません。それでも「今日は抑えましょう」と言うのは簡単ではありません。クライアントは目的を持って予約枠を確保し、料金を支払っています。そこで負荷を落とす提案をすると、「手を抜かれたのではないか」「損をしたのではないか」という不満につながりかねません。ここには、善意では突破できない圧があります。
この圧は、トレーナーの倫理感の問題に還元できません。むしろ逆です。誠実であろうとするほど「来てくれたのだから何かを渡したい」という気持ちが働き、負荷を足す方向に判断が寄ってしまうことがあります。筆者はこのことを、失敗として体験しています。
通い放題と「元を取りたい」心理の矛盾
筆者の運営するパーソナルジムには通い放題プランがあります。運動を習慣化してほしいという思いからです。筋トレをしたいのに、毎回支払いが発生することで足が重くなる。そう予想していました。
ところが実際に返ってきた反応は、別の合理でした。元を取りたい。1回単価を安くしたい。その結果として、月に25日来店される方が現れました。
理屈だけを見れば成立しうる頻度でした。筆者自身、選手時代はそれに近い頻度でトレーニングしていましたし、強度はもっと高かった。しかし、その来店頻度を「あり得る選択肢」として受け取り、深く疑う前に走り出してしまったのだと思います。
しかし、日に日に疲労の蓄積が見えました。それは筋肉の疲れというより、気分の落ち込みとして現れました。負荷も上げにくくなり、やがて「ただ来店して筋トレっぽいことをしている」状態になっていきました。当然、効果は頭打ちになり、本人の表情も明るくはなりませんでした。
筆者はそこで、止めるべきだと分かっていながら、次の一言を飲み込みました。通い放題を謳っておいて「来るな」とは言いにくいからです。遠回しに休むよう促しても、「元を取りたい」という動機の強さの前では、うまくいきませんでした。結局、その方は引っ越しを理由に退会されました。
筆者の中には反省が残りました。しかし同時に、これは個人の判断ミス以上に、構造的な必然であるとも感じました。「元を取りたい」という顧客の経済合理性と、「応えたい」というトレーナーの善意。この二つが揃えば、制度がどうあれ、ブレーキは構造的に踏みにくくなるからです。
このときの感情は、無力感というより戸惑いでした。
冷静に考えれば、これは生存者バイアスの罠でした。そもそもトレーナーという職業を選んでいる時点で、その多くは高強度の負荷に適応し、生き残った側の人間です。対して、多くのクライアントはそうではありません。
ここで「自分にはできた」という生存者バイアスが、無意識のうちに「相手もできるはずだ」という期待へすり替わります。筆者のミスは、単なる個人の不注意というよりも、この職種が構造的に抱える落とし穴でした。だからこそ、同じ場所に滑り落ちる可能性は、すべてのトレーナーにあるのです。
それ以来、筆者は初回の体験の段階でこの失敗談を話し、通い放題であっても休むことが必要になる局面があることを、最初に丁寧に共有するようにしています。これは注意喚起というより、契約の付帯条件です。通い放題は「いつでも来ていい」という自由であると同時に、「来ない自由」も含むはずだからです。
「頑張らない」市場の台頭と課題
近年、「疲れないパーソナルトレーニング」「頑張らない」といったキャッチコピーが支持され、整えることに主眼を置いたサービスも増えています。これは「頑張らせる」ことへの反動として理解できます。ここには「これ以上頑張れない」という生活者側の切実さがあります。
ただし、ここで議論すべきはスローガンの善悪ではありません。身体変化を主目的に置くなら、負荷をかけない設計は、期待された適応を生みにくいと言えます。安全であることと、有効であることは別の軸です。本稿が目指すのは、頑張らせるか頑張らせないかの二択から離れ、生活を含めた負担の総量を前提に、負荷を足す日と、抑える日と、足さない日を、意思決定として位置づけることです。そのために、次章ではハイパフォーマンス領域で共有されている前提に目を向けます。
第2章 ハイパフォーマンス領域における回復の前提
トップアスリートを対象としたスポーツ科学やストレングス&コンディショニングの現場では、回復と休養は、トレーニングと同じくらい重要な変数として扱われます。疲労は「頑張った証」ではなく、管理すべきコストとして位置づけられます[1][2]。
総負荷と回復能力の不均衡
ここで重要なのは、負担がトレーニングの中だけで完結していないという見方です。トレーニング負荷に加えて、睡眠不足、対人ストレス、移動、学業や仕事の山場といった生活側の負担も、同じ回復資源を消耗します。国際的なオーバートレーニングの統一見解は、問題の中核を、トレーニング負荷だけでなく非トレーニングストレスを含む総量と回復能力の不均衡として捉えています[3]。したがって「トレーニングメニューが理論上適切である」ことは、十分条件にはなりません。理論上整っていても、生活側が崩れれば身体は崩れます。この前提が共有されているからこそ、計画的に休むことが言い訳ではなく技術になります[1][3]。
主観指標の有用性と運用秩序
総負荷を把握するために、現場ではトレーニングの量と強度を継続的にモニタリングする枠組みが発達してきました[1][4]。その際、セッションRPEのような主観的運動強度は、トレーニング負荷を扱う実務で広く使われています[4][5]。また、回復やストレスを扱うために、質問紙や日誌の形式で状態を定型化して観察する試みも蓄積されています[6][7]。ただし重要なのは、道具の導入それ自体ではありません。限られた情報の中で、どのシグナルを優先し、どの所見で裏取りをするかという「運用の秩序」を持ち込むことです[1][2]。
ここで見落としてはならないのは、科学的という語がしばしば想起させる「数値だけが正しい」という態度が、必ずしも現場の意思決定を強くしない点です。主観的自己報告が、よく用いられる客観指標よりも、疲労やトレーニング反応の検出に有用であったとする主張もあります[8]。このことは、主観を絶対視するという意味ではありません。限られた情報の中で、どのシグナルを優先し、どの所見で裏取りをするかという、運用上の秩序の問題です[1][2]。
第3章 一般指導における「総負荷」視点の欠落
第1章で見た通り、一般パーソナルジムの現場では「頑張らせる」ことが価値として強化されます。一方、第2章で確認した前提は、生活側の負担を含めた総量と回復の釣り合いでした[3]。この二つのあいだには、構造的な溝があります。
生活ストレスとトレーニング負荷の競合
一般ジムでも「最近忙しくて」「子どもが体調を崩していて」といった生活の話は交わされます。しかし、その情報が当日の負荷を調整するための材料として扱われることは多くありません。生活側の負担は共感の対象にはなっても、重量やセット数を下げる根拠にはなりにくいのです。その結果として「生活の負担で容量が圧迫されているのに、ジムでは負荷を足す」というすれ違いが起きます。
典型的な像を想像してみます。フルタイムの仕事、家事と育児、断続的な睡眠。そうした生活者にとって、週1回のトレーニングは「ゼロに足す」行為ではありません。「すでに満杯に近いコップに最後の一滴を垂らす」行為になり得るのです。セッション中の集中力低下、前回より重量が挙がらない、表情が冴えない。これらは「気合が足りない」と解釈されやすい。しかし別の読みも可能です。頑張れていないのではなく、生活全体ですでに頑張りすぎており、追加の負荷を受け入れる余裕がないのです。
回避行動としてのフェードアウト
負担の総量が許容量を超えた状態が続くと、行動にはパターンが出ます。意欲の低下、予約への抵抗、キャンセルや日程変更、予約画面を開けない。そして連絡が途絶え退会に至ります。現場では、これが「意志が弱かった」と片づけられやすい。しかし、疲労の蓄積が心理的な側面に現れ得ることは、(主に競技者領域で整理されてきた)総負荷と回復の不均衡という枠組みを手がかりにすると、一般の指導現場でも一定の範囲で説明しやすくなります(注1)[3]。
医学的な診断名がつくかどうかは、現場にとって本質ではありません。重要なのは、「負担が回復を上回れば、顧客は防衛反応として現場から去る」という、冷徹な事実です。もちろん、診断をしているのではありません。費用、時間、相性、優先順位の変化。理由は多因子であり、それが現実の大部分を占めるでしょう。その上でなお、一定のケースでは、負担の総量が回復を継続的に上回る状態が続くと、結果として予約回避のような行動が起きやすくなる――と仮説として捉えることができます[3]。
本当の攻防は、予約画面を開こうとして、そっと閉じた瞬間に起きています。「行きたい。行かなければと思っている。でも動けない」。この葛藤を、サボりとして処理するのか、回復の問題として扱うのか。ここで介入の形は分岐します。
第4章 回復の意思決定化と専門性
ここまでの議論が示すのは、トレーナーが直面しているのはメニュー作成の問題だけではない、ということです。不確実な情報の中で、どこまで負荷をかけるか、どこで抑えるか、いつ引くかを決めます。これは意思決定の問題です。
「やる・やらない」二元論からの脱却
現場には二種類の誤りがあり得ます。一つは、元気なのに慎重になりすぎて負荷を下げてしまう誤り。もう一つは、休養が必要なのに見抜けず予定通りの負荷をかけてしまう誤りです。一般パーソナルジムの制度は、後者の誤りに傾きやすいと言えます。せっかく来たのだから何かをしてあげたい。キツさがないと満足してもらえないのではないか。こうした心理と商業上の圧が、判断を押します。
このとき重要なのは、「やるか、やらないか」の二択に落ちないことです。負荷を足す、抑える、足さない。少なくとも三つの選択肢を同時に持っているだけで、判断の質は上がります。たとえば、ストレス発散のために動きたいというニーズがあるなら、重量は追わず、会話と血流促進を優先する。これもまた、広義の「回復」を意図した積極的な意思決定です。ここで求められるのは、手順の暗記ではなく、観察から判断を作る態度です。本人の訴え、表情、動きの重さ、集中力の散漫さ、ウォーミングアップの反応。複数の手がかりを束ねて、「今日はここまでにしましょう」と言語化します。こうした運用は、トレーニング負荷のモニタリングという文脈でも重視されてきました[1][4][8]。
また、主観的運動強度の尺度は、負荷や反応を扱う際の基礎語彙として広く用いられています[5]。ただし、本稿が扱うのは、特定の尺度の推奨ではありません。主観的自己報告の価値と限界を踏まえ、それを観察可能な所見と接合し、過不足のある情報から妥当な選択を作るという態度です[1][2][8]。
停止判断を引き受ける専門家の責任
多くの場合、トレーナーは「頑張らせる責任」については自覚的です。しかし「止める責任」については言語化が弱い。クライアント自身が疲労を正確に把握できない局面では、外部の観察者であるトレーナーが、見立てを説明し、合意の上でブレーキ役を担う必要があります。
なお、胸の痛み、失神、普段と明らかに異なる強い息切れや動悸、急な強い痛みや腫れなどが見られる場合には、負荷調整の範囲にとどめず、速やかに中止し、医療機関での評価を優先することが前提となります。
結語
本稿では、一般のパーソナルジムという環境において、なぜ回復・休養が構造的に選択されにくいのか、そしてその結果として何が見落とされうるのかを検討してきました。
「せっかく来たのだから、しっかり追い込んで満足感を提供する」。この引力は強力であり、多くの場面で短期的な充足感とも合致します。しかし人間の適応は、ジムの中だけで完結しているわけではありません。仕事、家庭、睡眠不足といった生活側の負担に、ジムでの物理的負荷が加わったとき、週1〜2回の頻度であっても許容量を超えることはあり得ます[1][3]。
通い放題の失敗は、筆者にとって「制度のねじれ」と「自分基準の移植」が重なった出来事でした。善意で設計したはずの仕組みが、別の合理によって逆方向へ回り始めます。そのとき、止めるべきだと分かっていても止めにくい圧が働きます。ここに、回復を「その場の気分」ではなく「意思決定」として扱う必要性があります[1][3]。
不調や離脱のリスクを下げ、継続しやすい環境を作るために。トレーニングをさせる技術と同じ熱量で、休ませる判断を言語化すること。その勇気ある撤退の提案こそが、継続という価値を支える専門性になると、筆者は考えます。
注記
(注1)本稿で用いる「隠れオーバートレーニング様の状態(比喩)」という表現は、オーバートレーニング症候群という枠組みを借りながら、一般パーソナルジムの文脈で観察される負担の総量と意欲低下の関係を説明するための比喩的表現です[3]。厳密な診断や治療は医療専門職に委ねられるべきであり、本稿はその代替を意図しません。
参考文献
[1] Halson SL. Monitoring training load to understand fatigue in athletes. Sports Med. 2014;44(Suppl 2):S139–S147. DOI: 10.1007/s40279-014-0253-z. PMID: 25200666. URL: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/25200666/
[2] Thorpe RT, Atkinson G, Drust B, Gregson W. Monitoring fatigue status in elite team-sport athletes: Implications for practice. Int J Sports Physiol Perform. 2017;12(Suppl 2):S227–S234. DOI: 10.1123/ijspp.2016-0434. PMID: 28095065. URL: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28095065/
[3] Meeusen R, Duclos M, Foster C, et al. Prevention, diagnosis, and treatment of the overtraining syndrome: Joint consensus statement of the European College of Sport Science and the American College of Sports Medicine. Med Sci Sports Exerc. 2013;45(1):186–205. DOI: 10.1249/MSS.0b013e318279a10a. PMID: 23247672. URL: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23247672/
[4] Foster C. Monitoring training in athletes with reference to overtraining syndrome. Med Sci Sports Exerc. 1998;30(7):1164–1168. DOI: 10.1097/00005768-199807000-00023. PMID: 9662690. URL: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/9662690/
[5] Borg G. Borg’s Perceived Exertion and Pain Scales. Champaign, IL: Human Kinetics; 1998. URL: https://books.google.com/books/about/Borg_s_Perceived_Exertion_and_Pain_Scale.html?id=MfHLKHXXlKAC
[6] Kellmann M, Kallus KW. Recovery-Stress Questionnaire for Athletes: User Manual. Champaign, IL: Human Kinetics; 2001. URL: https://books.google.com/books/about/Recovery_stress_Questionnaire_for_Athlet.html?id=tyYBWi0pc68C
[7] Rushall BS. A tool for measuring stress tolerance in elite athletes. J Appl Sport Psychol. 1990;2(1):51–66. DOI: 10.1080/10413209008406420. URL: https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/10413209008406420
[8] Saw AE, Main LC, Gastin PB. Monitoring the athlete training response: subjective self-report measures trump commonly used objective measures. Br J Sports Med. 2016;50(5):281–291. DOI: 10.1136/bjsports-2015-094758. PMID: 26423706. URL: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26423706/
付記
本稿は、パーソナルトレーニングジムPriGymにおける指導指針および意思決定の設計思想を言語化したものです。特定の疾患に対する医学的助言や診断を目的とするものではなく、健康なクライアントを対象とした指導現場における論点整理を主眼としています。

